KOTOKO

幼い息子大二郎を抱える琴子には、二つの世界が見える。穏やかな平和に満ちた世界と、悪意と憎悪が容赦なくぶつかってくる世界。そんな世界が一つになるのは歌を歌っている時だけ。そんな琴子を周囲の人間は、幼児虐待をしていると思い込み琴子は最愛の息子大二郎と離れて暮らさざるを得なくなる。そんな琴子の前に小説家の田中が現れた。

ネタバレあります。





塚本晋也監督の最新作。この監督の作品には、何て言うんだろう、言葉にならないものがスクリーンの向こうから突き破って出てくるような、そんな感じがあります。

琴子という女性に見える二つの世界、二つの現実は外側の客観的な、私たちが普通「現実」と考えているものと、彼女の内面にあるもの、この二つだと思うんですね。普通この二つが分離することはなくて、たとえ他人の悪意を邪推したとしてもそれは単なる被害妄想だって片付けてしまいます。でもこの映画は、このフィクションは、それをリアルに描き出すんですよね。いやーこれ、本当に怖かった。あの女子高生が叫びながら襲いかかってくるところとかもうね…。でもこの映画は単なる妄想を過激に映像化しているだけではないと思います。このもう一つの世界に存在する、悪意、憎悪、恐怖。これが琴子の内面の現実です。もちろん彼女は、曲がりなりにも職を持ち、子どもを育てるという外側の現実もきちんと認識して生活しています。ではその内面の現実とは何なのか。これを紐解いていく言葉が、戦場、歌、折り鶴、じゃないかなと思うんですね。最初に琴子は、このもう一つの現実の中で「も」生きることを、あたかも戦場に居ることと同じ、というようなことを言います。(ちょっと忘れてしまった)彼女にとって、その現実は戦いの場で、心休まることがない。大きな声で泣く大二郎を抱えて、必死に鍋を振う調理のシーンの殺伐さや、最終的には戦場の兵士そのものが現実に浸食してくる異様さがそれを表しているように思います。彼女は戦場の真ん中で生きているんですね。

どうしてそういうことになったのか、小説家の田中と出会った時にそれが少しだけ説明されているように思います。彼女は過去に性犯罪の犠牲者だったのではないかと思うんですね。少し独自の解釈を許してもらえるなら、大二郎はその時にできた子どもだったのではないでしょうか。(この部分の説明はありませんでしたが)琴子が愛するあまりに大二郎を何度も殺しかけるのは、そして大二郎が男の子であるのは、この忌避している過去の傷そのものだからという気がします。
それと女性が世界を、現実を感じる時に使うのは、言葉ではない部分があるんですよね。身体と言えばそれまでなんですが、どこか理屈ではないところで世界観を構築していたりします。だから言葉でどうにかできる部分というのは、男性に比べて少ないんですよね。嫌なものは嫌、というのはその女性独自の世界のルールに反するからなんです。そういう世界を琴子は一度粉々に壊された。それをなんとか崩壊しないように繋ぎ合わせて、ついには殻の内側のようなもう一つの現実が作られてしまったのではないかと思います。

言葉ではどうにもできない部分を持つ者が、言葉で世界を創り出す者と出会った。小説家の田中は、言ってみれば言葉のプロです。彼は琴子が発作のように暴れ出す時に「大丈夫だから」と言葉をかけます。それはその内側の戦場へ伸ばされた外側の現実からの救いの手です。そんな現実は存在しないから。あなたはこの安全な現実に居るのだから。大丈夫だから、と。田中は言葉が現実を作ると信じている、普通の人です。だから言葉をかける。でもその琴子の内側の現実は、言葉で出来ていない。粉々に砕けた欠片を恐怖や憎悪でめちゃくちゃに繋ぎ止めている混沌としたものです。そこに言葉は届かない。田中は琴子に一度「小説家を止めようかと思っている」と告白します。田中はこの届かない言葉に気づいていた、小説家という言葉のプロとして敗北しつつあると感じていたと思うんですよね。
では琴子はこの殻の中の内側の現実に閉じこもったままなのかというとそうではない。自傷行為で血を滴らせながら彼女はそこから出ようとしていたように思うんですよ。殻の鋭利な先端に引っかけてしまったように。そして歌です。琴子は歌うことによって、その内側の現実から外へと向けて呼びかけていた。これが、この琴子がCoccoという歌手にしか演じることができない理由だと思うんですよね。私は南方の方言はほとんど知らないし、彼女の歌はどこか言葉というよりも喉という器官を通した音のような感じがするのですが、その内側から爆発するような感情の激流が、まるで鋭利な刃物や弾丸のように外側へと放たれているように思いました。それは彼女が戦場の真ん中に居るから。それを表現できるのはやはりこのCoccoという、本来柔らかい女性の歌声の中に鋭さを含ませることが出来るのは、この人しかいないのではないかと思います。田中は救うはずの女性から放たれた歌という弾丸を一身に浴びて姿を消します。

束の間の平和な時間の後で、大二郎もまた琴子の二つの現実に分離されます。その片方を琴子は殺してしまうんですね。それは自分自身のその内側の現実を葬ることでもあったんじゃないかな。でももう琴子には外側の現実への手がかりはなにも残されていないんですね。手を差し伸べてくれた田中はもういない。内側でも外側でもない場所で、琴子はそれでも生きようとします。最後の病院の庭で雨に打たれながら舞い踊るシーンは、なにか足掻いているような、なにかを請うようなそんな必死さと、誰にも到達しえない場所に居る神聖さがあるように思いました。はたしてそこは幸せな場所なのか、それとも孤独で寂しい場所なのかは分かりません。でも大きくなった大二郎は、そんな琴子の前に折り鶴を置きます。折り鶴は、平和や安全を願う時に折ることが多いと思いますが、琴子のその場所が平和でありますようにという息子の外側からの祈りが、それを象徴していたのではないかと思いました。これはこの映画の中で描かれた、小さいけれど確かな希望だと思いますね。

衝撃的なシーンが多くて、観ながら心の中で「うわっ」とか「おおっ」とか叫びながら観てました。かなり深刻なシーンなのに細かく笑いを挟んでくるのも新鮮でしたね。琴子と田中が鉄の扉越しに叫ぶシーンでは、お互いに鉄扉におでこをごんごんぶつけてて、しかも後のシーンできっちり絆創膏貼ってて軽く笑いました。あと田中(塚本監督)が殴られて顔が変形し過ぎ。琴子ひどいよー(笑)