ぼくらは都市を愛していた

ぼくらは都市を愛していた

ぼくらは都市を愛していた

!!! ネタバレ !!!











公安課に勤める<わたし>、綾田カイムは組織的な計画の中で生体通信機を埋め込まれ、電子機器のテキストデータを傍受するという能力を手に入れる。この能力は同時に、脳内の言語活動さえ受信可能となり、同僚や上司の思考を共有することとなってしまう。そしてそれは思考だけでなく、意識というものの共有にまで拡大していく。そんな折り、公園で遺体で発見された女性の殺害事件が、その拡大した意識に同調する。犯人は<わたし>、被害者は部下の女性。犯人だけが明らかで、動機とそれを実行した肉体は謎のまま。<わたし>はそのもう一つの肉体を捜査する。
一方、デジタルデータや電子機器のみを破壊する<情報震>によって無人と化した都市で、原因を明らかにしようと日本情報軍の小隊が調査を進めていた。互いに体内に埋め込まれた通信機を用いて偵察を進める彼女たちが一人、また一人と無人の都市へと消えて行く。

おおお久しぶりにすごいSF読んだ!いや、今まで読んだのが別にすごくないわけじゃなくて、読んだ後に「ふおおお!」ってなるのはそうそうないんですよね。
優れた小説、文芸作品というのは、一つだけの解が用意されているのではなくて(もちろん物語は一つの着地点に収まるべきだとは思いますが)、様々に読み取れるものが複数あるのではないかと思います。

例えば綾田カイムと都市の関係はこれまでサイバーパンクと呼ばれて来たものでした。映画「マトリックス」では、何千、何万という大人用の保育器の中で人々は眠り、その夢の中こそがこの現実だと信じている。この都市もそういう夢だということができます。(もちろん映画と同じようにそれを「現実」だと言うこともできる)けれど綾田カイムはそこから目覚めたネオとは違うんですね。彼は都市と対立する者ではなくて、都市の一部であり全体でもある。うーん、なんだか禅問答(笑)のような書き方になってしまうけど、そういうことなんですよね。そしてサイバーパンクの根幹を成す、この都市という電脳空間は綾田カイムという個人によって支えられている。

(中略)電脳空間が創造する人造美女と人間個人の存在論的な精神的外傷(トラウマ)とが密接に共振しているところに、最大の特徴がひそむ。
SFマガジン2009年1月号 ウィリアム・ギブスンの現在史 著作:巽 孝之

まあカイムは美女でもひどく醜くもないんですけど(中年のおっさんという設定)、このサイバーパンクのお約束では、電脳空間の根底には個人のトラウマがある、というのはまさしくこの系統なんですよね。*1カイムには忘れがたい、後ろめたい過去がある。このサイバーパンクの系統では、この個人は主に女性とされてきましたが、ここでは男性なんですよね。そこがちょっと面白いなと思って、世界の母体(ちなみにMatrixは母体、基盤という意味もある)となるのが女性であるというのは、すごく納得のいく設定だなと思っていたのですが、じゃあそこに男性を持って来たらどうなるんだろうなと思っていたんですよね。彼は意識という基盤を提供しているのではなくて、その物理的な身体そのものを提供しているんですね。
あ、これちょっと違うかもしれないけど、私は社会人で独り暮らしをしているんですが、私の中には「仕事をするお父さん」、「家事や健康を管理するお母さん」、「遊んだり楽しいことをする子ども」という3つがなんとなく存在するんですよ(笑)私という身体は一つでも、一日の中でその三者をなんとなく無意識に切り換えてるんですね。カイムがしていることはこれよりももっと複雑ですが、なんとなくそういうことなのかなと思いました。
そしてその舞台を整えているのが電脳空間です。人類はかつてこれまでこんなに膨大な情報を蓄えたことはないでしょう。サイバーパンクの代表作「ニューロマンサー」の冒頭はこの一説ではじまります。「港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった」。去年アナログ放送が終了した際にこんなコメントをネットで見かけました。「空きチャンネルのTVの色をもう見ることができない」。電脳空間を満たしている空気は情報です。私たちはもうそれを失って生きて行くことはできません。しかしこの物語ではそれを根底から(文字通り)揺るがす<情報震>というものが存在するんですね。以下はその壊滅的な被害を受けてまったくの情報の真空状態に取り残された人物の独白です。

空はどこまでも青く澄んでいて、見ているとなぜだか泣きそうになる。(中略)いまにして思えば、あのブルーグレイの空の色は、空中を渡る無数の通信波や放送電波によるもの、すなわち電磁波に満ちた空間の色だったのだ。
「ぼくらは都市を愛していた」著作:神林長平

このどうしようもなく窒息した感覚。息苦しいという生易しいものではない、圧倒的な虚無感が表現されているように思いました。それは過度な情報圧とは真逆の現象であるはずなのに、なんだか分かるような気がするんですよね。

もう一つは物語の在り方ということを示しているのではないかと思います。「その人が自分であると認識するには実に多くのものが必要である」(確か攻殻だったと思う…)という言葉のとおり、私はいまこうして考えてる意識の他にそこそこ思い出せるだけの記憶と、友人や家族など誰かと共有している思い出や、記憶の根拠となる写真や物といったそういう物事が必要なんですよね。それが<私>という物語です。この小説は一見、その私的な物語の否定にも思えます。機械的に圧縮されていく個人の記憶、価値基準の異なる視点から物語の再評価をしたら、きっと私の物語はさほどの価値を持つことはできないでしょう。自分では大事だと思っていることなんて他人からしたらどうでもいいですよね。だけどこの物語はそうではなくて、そうした個々の生きた人間のノイズだらけの物語と平行して、別の存在の物語を打ち立てただけなんだと思います。その別の存在、それが<都市>です。都市という別の次元、別の階層での物語を物語ること。この<都市>を満たす人間はほとんど死者です。私にはこの物語が、死者への優しさと別れを描いているように思いました。

*1:ちなみにゲーム「ペルソナ」も実はこの伝統通り、世界がある少女の夢の産物であるという点でサイバーパンクだと思います。