エイリアン2

やっぱりリドリー・スコット監督の1作目は読みにくかったなー。というわけで二作目はジェームズ・キャメロン監督作品。ていうか「アバター」はこれが土台なのかな。地球の軍事兵器vs地球外生命体とかそのあたりは近いものを感じました。あと両作品にシガニー・ウィーバー出てるね。

恐らくさんざん言われていると思いますが、この作品は母性の物語です。それは終盤のエイリアン・クィーンとリプリーとの戦いを見れば明らかです。クィーンもリプリーも互いに子どもを守ろうとしているだけで、その守るべきものに害なすものには容赦しないという気迫が互いに迸っていてすごく良かったです。終盤エイリアンに攫われたニュートという少女を救出に向かうリプリーのあの殺気立った表情とか、卵を破壊されたクィーンのむき出しの敵意(歯もw)とか見事に画面に火花散らしてて面白かったですね。母性というと敵意とか殺意とは真逆の位置にあるイメージなんですが、この映画は母性の負の面を描いているんじゃないかと思うんですね。リプリーは自分の娘に母親らしいことがあまり出来ずに喪ってしまう。その娘の代理としてニュートを守ろうとするのですが、彼女は娘の喪失にコンプレックスを抱えているんじゃないか。母親としてちゃんとできなかった、という失意がある。そしてその失意は最初のエイリアン遭遇のトラウマと共に、クィーンへの殺意になっていくんじゃないかと思うんですね。で、このクィーンがリプリーにとっては完璧な母親像と映るんじゃないか。クィーンは生物的にせっせと子どもを産んで、母親としての機能を全うしている。一方でリプリーは満足に子どもとの約束も果たせなかった。幻想としての完璧な母性をこのクィーンは担っていて、リプリーはそれを殺しにかかります。それは幻想に立ち向かう普通の母親としても見ることができるし、私などは母親になることも恐らくないでしょうから(笑)、どっかで感じてる「女性の機能を全うしない」という罪悪感への抵抗、と見ることができるんですよね。そして子どもを殺されたクィーンもまた、その幻想の座から下ろされてリプリーと同じ怒りと悲しみと喪失と失意に叩き込まれる普通の母親になります。これは普通の母親どうしの戦いの物語。完璧な母親なんていう現実離れした概念が生み出す負の母性の物語じゃないかな。