Running Pictures 伊藤計劃映画時評集1

Running Pictures―伊藤計劃映画時評集〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

Running Pictures―伊藤計劃映画時評集〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)


「映画を見ることは猫にでもできるけれど、映画をきちんと理解しながら観ること(映画を読むこと)は難しい」(意訳)とは映画批評本「映画の教科書」の言葉ですがこの映画を読むことができる数少ないシネフィル、それが伊藤計劃さんでした。映画の世界のゴシップから撮影技術、美術、編集、音楽、役者のプロファイルなどなど幅広い豊富な知識と、それ以外のジャンル、文学、哲学、漫画、アニメ、ゲームに対する考察、それを単なるデータベースとするのではなく適切に引用する批評のセンスは今読んでも感心するばかりです。

では、どうやって彼はこのようなセンスを身に着けたのでしょう。「映画の教科書」にもある通り、意識的に映画を読もうとしなければその意味を理解し蓄えることはできません。意識的に、積極的に映画から意味を読み取ること。その姿勢はこの時評集にある伊藤さんの基本姿勢だとおもうんですね。この時評集の狙いは、「一般の人にも表面的なものだけではない映画の面白さを知ってほしい」なんですが、この「表面的なものだけではない映画の別の面白さ」を解説するために全力をあげて伊藤さんは映画から意味を読み取っています。ほとんどの作品の解説は、ダメだしから始まっています。普通の人が「なんだこれつまんないね」という意見を一度肯定しつつ、「でもこんな観方もあるよ」と読み取った意味を丁寧に説明し映画の別の側面へと光を当てる。それだけじゃなくて「なんの意味もなかった!」という映画には意味のなさを容赦なく語るんですよね。逆にどれだけひどいのか観たくなってしまう(笑)意味のないことでも、その意味のなさだけは語り得るという視点はSF的だなとおもいます。

積極的に映画から意味を読み取るなんて、よっぽど暇な人じゃないとしないとおもうんですよね。(まあ私もその一人ですが)でもそうするのはなぜかというと、どんな創作物にも何かしら得られるものがあると信じているから。それも普通の映画ファンよりも純粋に深く。でも、基本的に映画や創作物はそういう「お土産」を担保しません。制作者は意味のないただのド派手なアクションで空っぽのドラマをスクリーンに流しても別にいいんです。それでも伊藤さんの視点はそこからなにかしらの「お土産」を持ち帰って来る。その原点は、実は小島監督作品にあるとおもっています。小島監督作品は単なるゲームではなく、読み取ることで得られるものをきちんと用意している。もちろんゲームはそれを担保しません。ゲームの内容をどう解釈するかなんて読み取る側の勝手です。でもそう読み取る受け手がいることが念頭に置かれている作品であることは間違いないです。その作品の初期からのファンである伊藤さんはその内容を読み取り他では得られないものを受け取っているんですよね。それはMGS4のノベライズを読めば自ずと分かることではないでしょうか。その経験は、創作物への信頼を育てた一端になり得たのではないかとおもうんですね。

創作物から積極的に意味を読み取ること。それは常にクリエーターに対する尊敬と作品に対する誠実さが必要です。時々この時評集のなかに登場する怠惰であることを嫌悪する言及は、この誠実さの不足を指摘しているのではないかとおもいます。

と、まあ結局映画批評の感想ではなくて伊藤さん自身の考察みたいな感想になってしまいました。収録されている映画も何本か観てるのあるけど、視点が全然違うから面白いですよね。それと同時にやっぱり影響受けたなーというのがあって、大島渚監督の「御法度」という映画について、新撰組という組織、システムとエロスという一見かけ離れた二つの事柄を結びつけている素晴らしい批評なんですが、これ私が以前感想書いた「J.エドガー」がこの着眼点そのままっていうか、あー影響受けたねーという感じでぎゃーってなりました。はあ。まだまだだねー。