BEATLESS

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あらすじ

二十二世紀、日本。"ハザード"と呼ばれる災害を乗り切った世界には、hIEと呼ばれる人間型ロボットが普及し、前世紀から緩やかに減少する人口を補っていた。高校生のアラトは、親友のリョウやケンゴと共に平和な高校生活を送っていたが、ある日目の前に美しいかたちの正体不明のhIE、レイシアが現れたことによって世界をめぐる戦いに駆り立てられて行く。



さて。何から感想を書いていいのか。とにかく詰め込まれているアイデア、示唆、ネタがすごくたくさんあって、それでいてそれらがバラバラにならずにきちんとストーリーに絡んでいる作品、でした。すごい。なんだか自分の価値観がアップデートされたような感じ。まあ私もこの作品の主人公アラト同様にチョロい読者ですね。
前面に出ているテーマは「ボーイ・ミーツ・ガール」。だけどちょっとこのテーマで読むには私は年を取りすぎていて、人間世界と物質世界の結婚、というふうに読みました。結婚したことないけど、良いこともあれば嫌なこともありますよね、という意味も込めて。これまでフィクションはロボットは人間の感情を持つことができるか、あるいは人間とロボットを分けるものについてを描いて来たと思います。攻殻機動隊におけるゴーストとかね。でもこの作品では一貫してモノに魂はない、と主張します。そんなモノと人間はどうやって関わっていくべきか、魂のないものを信じるにはどうすればいいか。それを理詰めでとことん追いかけたもの。それがこの作品でした。

hIEとの共存をあっけからんと肯定するアラトの楽観的な視点はとても素敵なんですが、一方でリョウの抱える古くからある機械に対する不信や恐怖、不安もとてもよく分かるし、ケンゴのように時代に取り残されて行く感傷も大切だとおもうんですよね。この魅力的な三者の中で、どちらかというと私はケンゴのような普通の人間が戸惑いながらもその世界に適応せざるを得ない立場に共感しました。人間の役割が機械に置き換わり、全自動で効率よく進んで行く世界で、何者かになるということはとても難しい。でも逆に、人間の機能が外部にアウトソースされることによって、アウトソースできない部分というのが残るはずですよね。それがリョウの言う「女の子と仲良くなることくらい」=恋愛くらいなのかもしれないけど、大人になったらもうちょっとほかにやることありますよ。それを模索して行くのはそんなに惨めなこととは思えないんですよね。それに模索するための高性能な道具すら存在するんだし。むしろ自由な感じさえします。

一方で可哀想だなと思うのが親友のリョウでしたね。彼の抱える不安はたぶん生涯消えることがない。そしてもうそれを自分の存在意義の中に組み込んでいる。それでも不安に立ち向かおうとする意思と行動力は、読んでて切なかったですね。なんていうかまだ未成年なのに、なんで大人以上にぎりぎりの戦い強いられてるのかっていうか、大人もっとがんばれよーもう。でもそうやって自分の手に負えないものすら飲み込んで乗り越えて行こうとする姿はとてもかっこいいなとおもいます。

私はあまりモノを大事にしません。というとがさつな性格が露呈するのですが、携帯もデジタルカメラもパソコンも傷がついてもあまり気にしません。(よっぽど機能に障害が出るのは気にしますが)それは私がモノを自分の身体の延長として考えているからじゃないかなとおもいます。自分の身体ってあんまり丁寧に扱わないですよね。…ですよね(自信なくなってきた)携帯は声や書き文字と言ったコミュニケーション手段の外部化、デジカメは視覚記憶の外部化、パソコンは記憶と検索の外部化。そう言ったツールを自分の手足(これもモノと言えばモノだ)の先にあるものとして認識しているんですよね。一方で、長年使い込んだマグカップとかお気に入りのぬいぐるみとか、こういうのは大事にするんですよね。モノにはそういう二つの面があって、この作品に登場するレイシアという人間型ロボットはこの二つの側面を持っている。機能的に必要とされる部分と、デザインとして愛される部分を併せ持つモノ。そう言うモノがあったらきっと愛さずにはいられないだろうなあ。私は車に興味はないけど、そういう感覚に近いのかも。アラトがことあるごとに感じるレイシアへの愛しさはなんとなく分かるような気がします。

高校生のアラトは、人間型ロボットのレイシアを所有します。この関係は恋愛の代替のように見えて、実はそうではありません。人間が人形を所有する、という感覚は特に違和感はなかったですね。男性が美少女型のアンドロイドのオーナーになるという設定を私は、この作品の言葉で言えば「女性の人形としての役割を嘱託」する、というふうに解釈しました。いつの時代からかは分からないけど、女性が人形のような「きれいで可愛らしく大人しく従う」という役割を演じてきたと思うし、そしてそれは今の時代にはもう古くなって表立って見かけることは少ないけど、深いところではまだまだ根強く残っていると思うんですね。でもそれをアウトソースすることができたら。それがレイシアを始めとする女性型hIEの役割でもあるんじゃないかとおもいました。それは女性らしさを手放すということではありません。女性らしいというキャラクターを外部化する、ということ。どうやったって身体に付属する女性性を切り出すことはできないですからね。同じように男性性の外部化が可能な部分も切り出されて行くことになるはずです。

そんなふうに考えたのは、数年前にHRP-4Cというアンドロイド(作品中にも登場した実在の機体 http://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2009/pr20090316/pr20090316.html )を見た時に本当に普通の女の子に見えて、これから人間のそういう役割はこの子たちが担って行くだろうなと漠然と思ったから。リアルですごいですよね。で、それが導く未来の明るい面は女性はそこから自由になれるということ。これはけっこう期待ですね。若く美しく保っている必要はもうない。それは彼女たちが全自動でやってくれるので、年相応で居られるのはとても楽ですね。ほかにやりたいことにリソース割けるし。悪い面はどうやっても妊娠・出産は人間がしなければならないということ。それには性行為をしなければならないけど、この「人形としての役割」の中には肉体的な魅力も含まれているわけで、それを抜きに男と女はどう関わり合っていくか、ということになるのかな。まるで「1984年」の性行為が「快楽を求めることなどもってのほかで、それはあたかも一瞬の苦痛を伴う排泄のようでなければならない」であったような感じになるのかも。悪夢ですね(笑)そういう世界において男と女と機械は新しい関係性を模索する必要があるでしょう。きっとそこには私の知らない素敵で切ないロマンスがあるんじゃないかなとおもいます。

ネタバレ










作中に登場する超高度AI「ヒギンズ」と、事件のきっかけとなるhIE「イライザ」、これは映画の「マイ・フェア・レディ」かな。と思いついたのも別に映画ファンだからではなくて(実際観てない)、以前人工知能についての本を読んだ時にこの例が載ってたと記憶してたから。うーん、タイトルなんだったかなあ…。映画はヒギンズ教授が下町娘のイライザをとびっきりのお嬢様に仕立て上げて行く、というストーリーなんですが、まさしくヒギンズとイライザの関係性をそのまま現しているし、自分が教え込んだ生徒にしだいに愛着を覚えていくのは、この作品で一番言及されている人とモノとの関係性ではないかなと思います。あと映画「メトロポリス」では、人々を扇情するアンドロイド・マリアが登場しますが、これってアナログハックそのものですね。