これはペンです

これはペンです

これはペンです


日本語なのに何を書いているのかよく分からない、難しい、笑いどころが謎、と主に私に評判の(笑)円城塔さんの著作、「これはペンです」。なんかねーもうタイトルからしてつかみどころがないんですが、他の作品に比べて分かりやすい方じゃないかなあ。なんで中学英語の最初に出てくる例文のようなこれがタイトルなのか、ちょっと自分なりに理解したところを挙げてみますね。

  • これはペンです:機械を通してしか見えない世界

この作品に登場する自動生成、機械生成というものをちょっと説明してみますね。例えば新聞なんかから抜き出したひとまとまりの文章があるとして、その単語を一度ばらばらにしますが、次に来る単語もセットにしておきます。This is a penならThisとis、isとa、aとpenというように。文章を分解しました。さてここで、この分解した単語をランダムにつなげてみます。ただ適当につなげるだけでは芸がないので、セットにした単語が重なるようにしてみます。This isのセットの次は、isから始まるものをつなげます。まあ、This is a penのシンプルな文だと同じものができ上がってしまうんですが、ある程度まとまった文章でやってみるとへんてこだけど読めなくはない文章ができ上がります。これはマルコフ連鎖アルゴリズムというコンピュータプログラミングの初学として有名なアルゴリズム(問題解法)です。元々の文章は誰かが考えたものですが、このアルゴリズムを通すと誰が考えたものでもない、機械がでっち上げた文章が生成されます。これが機械生成です。
さてマルコフ連鎖アルゴリズムは、ちょっとおとぼけですが何かしらの文章を書くことができます。プログラムは繰り返すばかりじゃなくて、統計学とかそういう計算理論を元にすればこんなこともできるんですよね。ちょっとおもしろいでしょ?投入されるデータが多ければ多いほど、多様であればあるほど、機械生成は文法としてはそこそこあっていても、意味として解釈しにくい、文脈(コンテキスト)を無視した文章を書くことができます。あれ、ちょっとこれって円城塔さんの作品に似てる、というか彼の作品群はそういう機械生成された文章のテイストを持ち込んでいるんだと思うんですよね。あのPerfumeボーカロイドのテイストの楽曲が多いのと似てる感じです。ていうか、この作品の叔父さんみたいに機械生成で小説書いててもおかしくないんですがまあどうなんでしょうね(笑)ただ意味として解釈しにくくても、これらの作品には当たり前ですが文脈はちゃんとあります。あるはずです。読めてないけど。
人間のようにはいかないけれど、文章を生産することのできる機械。データベース次第でいろいろなものを描写できます。それじゃあ、その機械に、その機械自身を描写させたらどうなるでしょうか。機械に自己紹介させるってわけです。もちろん、機械自身のことを最初にデータベースに登録しておかなくてはなりません。文章を単語に分解したように。こういう、自分が自分を意識する、自分で自分を指差す、自己言及することをメタと言ったりするのは、まあそれほど説明しなくてもいいですよね。肝心なのはその視点が往々にして、だから?で終わってしまうこと。「これはメタだ!」で?(笑)
メタという言葉をちょっと調べると、高次な、とかそういう意味が出てきます。客観ともちょっと違う、物事をその物事自身も含めて俯瞰する視点、という感じかな。例えば、物語のジャンルにループものってありますよね。何度も同じシチューエーションを繰り返しているうちに、登場人物がその繰り返しに気がつく、というもの。その気づきを得るためには、そのループを俯瞰する視点が必要です。最初から最後まで進んで、また最初に戻ることを、上から見ているような。そういう視線から見えるもの。それをこの作品ではこのように表現しています。

はじまりから順を追ってはたどり着けない、何やらとても美しい種類の結末。

日常の主観的な視点からでは見えない世界があるということ。円城塔さんの作品は、こういう世界を拾い上げているんだと思うんですよね。機械に機械を語らせてみて初めて目の前に現れる、なにかのかたち。そのかたちをペンで拾い上げることができるのは、この人だけなんじゃないかな。
で、ようやくこの作品の内容に言及します。上記の機械生成は、投入されるデータのばらつきにもよりますが、同じものを生成することはできません。結果的にそうなったとしても保証されてるわけじゃないんですよね。機械なのに繰り返すことができないんです。変なの。

一々のプロセスを追いかけることができても、全体像は理解できない。そうしたこともまま起こる。スクランブル交差点を渡る一人一人の動きを追跡できても、その流れを上手く説明するには言葉の工夫が必要だ。

一つ一つの単語の意味は理解できても、文章全体の意味が解釈できない。機械の文章を理解するには、機械の文章を解釈する機械が必要だ。この作品は(恐らく)生身の人間の手によるものです。はずです。たぶん。だからこの文章を理解するために機械は必要なくて、読み出すために必要なものは読み手の側にちゃんとあります。それは意識と呼ばれるもの。文章から意味を掬い上げて想像や概念を構築する、説明のつかない人間の機能。この作品はそういう意識にまつわる様々な思考実験を機械生成を題材に描いています。異なる言語でなぜか意図が伝わる民族のエピソード、心理学や認知科学では有名な中国語の部屋。それらが単なるおもしろエピソードというわけじゃなくて、何かと何かが関係した時に人知れず構築されているなにかのかたちがある、と示唆しているんだと思うんですよね。そしてその個々は説明できても、全体の振る舞いを説明できないかたち、それを意識と表現しているのではないかと思います。
やっぱり、メタな作品にこれだ!という具体的なオチを見いだすのって難しいですね。ただそういう意識にまつわる抽象としての叔父さんがやがて、具象としてのごくごく普通の叔父さんに変わっていくくだりはなんだかほっこりしてて良かったですね。機械生成は繰り返しができないけど、生身の人間は不完全な繰り返しを限度はあれど何度でも行えるし、その繰り返しに埋没すること、メタな視点から舞い降りてきてその繰り返しの中から、ループを仰ぎ見る視点なんじゃないかなと思います。俯瞰から仰ぎ見る、一周した視点が描き出すなにかのかたち。ちょっとへんてこでおとぼけで、なんかかわいいけど、厳然とそこに存在するもの。私の意識はそういうものを読み出したようです。

  • 良い夜を持っている:記憶のための記憶

ベンジャミン・リベットは、人間の行動が脳とどのように関わっているかを調べる実験で、被験者の脳が行動を起こす前に活動していることを発見しました。SF読んでいる人ならおなじみのリベットの実験ですね。つまり「手を動かすぞ!」と思っている時には既に脳では判断が下された後ということ。自分の意思だと思ってることは、脳が下した判断の後付けなんですね。つまり意識は自分がした行動に対して適当に意味付けしてるってことです。つじつまを合わせる意識にとって、つじつまの合わないものは要らないですよね。意識にとって意味をなさないもの、シナリオに不要と判断されたものは切り捨てられます。これが「忘れる」ということなんじゃないかと、この作品を読んで思いました。意識の側でいつまでも参照されなかったり(思い出さなかったり)、保存しておいても役に立たなかったり(意味がなかったり)したものはどんどん消去されていく、というのはごく普通に想像できる記憶の在り方ですよね。でも、この作品に登場する「父」はほとんど無限の記憶を持っています。一度見たもの、体験したことは忘れない。特殊な能力というよりも、忘れることが出来ないという特殊な障害と言った方が正確かもしれません。そしてその父は前掲のリベットの実験とは逆に、行動を起こしてから脳が反応するという常人とは逆の結果になるんですね。つまり、意識は行動のつじつまが合うように適当な意味をつけることができません。いつでもその記憶を引き出せるように、その行動があり得る意味をすべて保持しておくことになるんじゃないかな。でもそういう些細なことすべてを持っていると、今度は思い出した時に大変なことになります。行動の意味が一貫しないという問題が出てきます。一意になる結果にならない計算みたいなものです。これは大変だ。前述の「これはペンです」で、一意にならない文章を書く機械が提示されたけど、こちらは一意に読み出せない人間という対比でもあると思うんですよね。忘れることができないなんて忘れっぽい私には羨ましい気もするけど、こういう困難を抱えるのは大変だな。
この父の記憶方式はデータベースのインデックスを多重化したもののように思います。データベースというとちょっと想像しにくいかもしれませんが、インデックスは本の巻末に載っていたりする索引のことですね。インデックスは本の何ページに何が書かれてるかを、その記憶の在処を指し示すものです。記憶を引き出すトリガーになるもの。さてここで、またメタな話になります。インデックスを指し示すインデックス(笑)例えば、何かの本の巻末に載ってるインデックスを見たら、別の本のインデックスが載っていた、と言えば想像しやすいでしょうか。そうやって本を渡り歩くように、父という人の記憶は記憶の中の都市を渡り歩きます。ああそうそう、ちょうどいい例が映画「インセプション」ですね。あれは夢の中にダイブする話ですが、夢の中でさらに夢にダイブします。そうやってインデックスの示す方向に記憶をたどり、引き出して行くんですね。さてさてここでまた問題です。これはインセプションでも共通する問題を抱えていましたが、そうやって記憶の中の都市と現実の街の区別をどうやってつけたらいいでしょうか。ちなみに見るもの食べるもの、経験したことは絶対に忘れない人間は思い出す時も当時と同じ鮮やかさで思い出す、とのことです。区別なんてつけられるわけないですよね。これが本当の現実かなんて誰に証明できるんでしょ。
ごくごく普通の人は昨夜寝る前の自分と、朝起きた時の自分は同じ、連続していると思っています。よくよく考えたらこれってすごいことですよね。だって確証があるわけじゃないのに。それは「自分自身」というつじつまを合わせて生きているからなんですよね。記憶を自分の都合に合わせて調整しているから、意味のある連続したものとして「自分」が成り立っている。だから眠りという意識の断絶があっても、夜を飛び越えても、朝には自分のつじつまに戻って来れるんですね。でもこの父はそういうことができない。どこまで行っても夢の中で、意味が不連続で、その時々で一貫性がないものを、果たして自分と呼べるのでしょうか。私はちょっと変わった夢をよく見るんですが、時々自分の外見が全然違ったりある時は性別すら違うこともあるんですが、夢の中でも主観は持ってるんですよね。良い夜とは、そういう意味の連続を不断に持ち続けること、なのかなと思います。



意識と記憶にまつわるちょっと変わった思索。この二つの作品はそういう見たことのない視点を与えてくれた、と思いました。ちなみに他の円城塔さんの作品群に比べてかなり読みやすい方だと思います。興味あるけど、という方はこちらか「オブ・ザ・ベースボール」をおすすめしますね。