グランド・マスター

あらすじ
1930年代中国。武術の党派は南北に分かれていた。南北の党派を統一させるため北の八卦掌形意拳・二つの流派を統合した宗師・宮宝森(ゴン・バオセン)は引退を機に、南の詠春拳の宗師・葉問(イップ・マン)と一番弟子で形意拳の使い手馬三(マーサン)との試合を申し出る。宝森には娘であり八卦掌の奥義六十四手を継承する若梅(ルオメイ)がおり、若梅もまたその試合へと名乗りを上げる。しかし戦争という時勢がその計画を打ち壊してしまう。しかし非公式ながらも葉問と若梅は拳を交え、束の間互いの技を交わし合う。一方、馬三は攻め入る日本軍と対立する師匠と決別し、命を奪い日本軍の側についた。師匠であり父を殺害された若梅は馬三への復讐を決意するのだった。



久しぶりのウォン・カーウァイ監督作品でした。昔は(今もか)いっぱしの映画マニアきどりで「恋する惑星」とか観てたんですよね。さて今作はあのカンフー映画の伝説的英雄、ブルース・リーの師匠であった葉問(イップ・マン)の生涯を主軸にその周囲の武術の達人たちを描いた作品でした。葉問を演じたトニー・レオンのインタビューによると、「いつもどおり、毎日違うシナリオを渡される」というウォン監督のいつものスタイルで制作されたようです。その割には分かりやすいストーリーだったんじゃないかなと思います。このウォン監督のおなじみの作風としてスローモーションを多用したり、今作ではダイナミックなカンフーの動きに雨粒が滴ったり、足下や拳、演技中の細かな表情を捉えるなどマクロなカットが随所に盛り込まれていて、カンフーという演舞を映画で魅せるということに全力を尽くしている、という印象でした。ていうかね、すごく綺麗なのよ。たぶん漫画にもこういうのあると思うんですよね。ジャンプとかのバトルものなんかで、鋭敏になった感覚を示す記号として。でもちょっと違う。ウォン監督は昔から、日常の時間感覚や体感を細かくする、言ってしまえば感覚を微分するような演出を多用してきました。今作ももちろんそうです。その細かなカットは静と動の対比として使われていながら、きちんと一つの流れをかたち作っているんですよね。足下の流れるような動きに対して上体の安定した構え、とか。カンフーの動きをただ写し取るだけではない、その根底に流れている考え方、コンセプトを全力で映画という手段で模倣しようとする試みなのではないかと思います。
カンフーの動きだけではなく、登場人物たちの描写についてもこの監督は独特の切り口を持っているんですよね。メロドラマを正面から描くのではなく、少しずれた視点から描くこと。この映画では京劇の歌唱シーンがよく登場しますがその歌手や音楽にフォーカスしながら、少しずれたところで登場人物たちが何気なく会話をしている。列車の中で言葉を交わす事もなくコートに這わせた手でそれとなく描写したり、コートのボタンがさりげなく気持ちのやり取りを担っていたり。そういうちょっと奥ゆかしい、記号的な会話、直接は口にしない、たとえ直接口にしてもどこか乾いている、そういう情緒の表現が本当に素敵なんですよね。
そしてこの表現を下支えしているのが映像美術です。ほんとねー雨とか雪とか、煙とかこれほど耽美に描く映画はないよ。雪が舞うプラットフォームでの対峙のシーン、冒頭の雨の中での混戦、暗い部屋に流れる煙に当たるライトの美しさ。動きのある映画にとって写真のような描画はほとんど必要ないけれど、ウォン監督の映画はそういう写真的な一瞬はっとするような美しさがあると思うんですよね。



少しストーリーについて言及を。
カンフーには縦と横しかない、と葉問は言います。最後に勝者として立つ者と、その前に横たわる敗者と。ではこの映画はそういう勝ち負けを描いているのかというと、そうでもないような気がします。八卦掌の使い手、若梅はこのように言います。1000年の武術の歴史の中で継承されずに埋没した拳法も数多く存在する、と。八卦掌形意拳の宗師・宝森は、弟子の馬三に形意拳の最終奥義を伝達できずにこの世を去ります。どんなに強い拳法でも継承されなければ時代の波の中に消えて永遠に失われてしまうんですね。強さという鮮烈な現実の前にそれはあまりにも儚い。その対比こそこの映画が描いていることじゃないかと思います。復讐という強い感情と、それを完遂した時の虚しさ。一時の強い愛情の発芽と、それがつぼみのまま凍ってしまったような永遠。失われるものと残るものとの間にある違い。そして人生は平坦な流れではない、緩やかな時もあれば急な時もあるということ。また時代の流れも同じであり、それはそのまま歴史ある武術カンフーの動きそのものでもあるのでしょう。