E3の季節ですね

3月のGDCから3ヶ月、E3でもトレイラーが発表されました。
METAL GEAR SOLID V

すごい!本当にこれ架空の世界なのか。まるで現実みたい。リアルに近い華麗なCGというものはとっくの昔に飽きられたものだけど、この映像を見るとなんだかそんな言葉しか出てこないんですよね。なんだろう、テクスチャーの精度なのか、光の処理の仕方なのかな。そんな現実に限りなく近い架空の世界で撮影された映画のように見えます。冒頭のオセロット(お、MGS3以来の登場ですな)とスネークが馬に乗って並ぶシーン、二人の服の質感や皺などのディールもすごいけどその背景に広がる岩の多い荒野の展望がほとんど実写と見まごうほど。これ、本当はあるんでしょ?こういう場所w その後スネークがソロで馬を駆るシーンは、あれ、これってMGS4のオープニングに似てないかな。なんか左に見える煉瓦っぽい建物に見覚えがw この途方もない描画力だけでも既存のゲームシーンを塗り替えてしまいそうなのに、さらに俳優をまるごとこの中に入れてしまおう、とでも言うかのような人物の造形もまたすごいんですよね。今回、49歳のスネークを登場させるにあたって抜擢されたのは、キーファー・"ジャック"・サザーランド。ドラマ24でおなじみ、というか私、24ちゃんと見てない…。彼は今回、声とフェイス・モーションを担当するそうですが、トレイラーでの声はとても良かったです。でもずっとスネーク役をやってきたデイヴィット・ヘイターさんが降板になったのはすごく残念。英語を習い始めの頃、MGS2 英語版(今夏リリースされるレガシー・コレクションに入ってますね。予約しちゃった)のセリフを書き留めて、スネークとキャンベルの会話でリスニングの練習していたの思い出しました。ちょっとハスキーな声がすごく素敵なんですよね。デイヴからジャックへという感じなのかな。
現実と間違えるほど精密な架空の世界に、実在する役者の声や動きでキャラクターを造形する。少し前に発表された小島監督のインタビューも見ましたが、映画というものをそのままゲームにすっぽりと入れてしまうようなそんな感じがしました。ああ小島監督はゲームに映画を丸飲みさせるつもりなのかな、と。蛇が獲物を補食するように。以前、物語論の本を読んだ時に、その中で小島監督は物語とゲームを融合させる方法を常に模索している、というようなことを述べていました。ゲームには、ユーザーが編み上げて行く物語と、ゲームが語る物語の二つがあります。私は小島監督ならその二つがうまく折衝する点を見つけられるのではないかと思ったのですが、このインタビューを見て二つの物語の融合なんて生易しいものじゃない、片方が片方のかたちを保ったまま包み込んでしまうなにかそら恐ろしいかたちを監督は生み出そうとしているんじゃないか、と感じました。なんだろう、なにかすごいことが目の前で起きつつあるのにそれを説明する言葉がぜんぜん見つからない。ただ私は”それ”がどんなかたちであろうと受け止めたいと思います。丸飲みは無理だけどちょっとずつ消化しながら。

さてゲームプレイ部分についてもすごいですね。毎回、トレイラーを見る度に「すごい!こんなこともできるの!?」って思うのですが、実際ゲームを始めるとその10分の1もできません。ゲーム好きなのにゲーム下手なのってどうなんだろう…。ただこれまでは「うわーこれ難しそうだな、クリアできるかなー」と不安に思うことも多かったのですが、今回は久しぶりに「早くやってみたい!」と期待しましたね。高さのあるステルスやトラックなどの奪取とか新しいアクションも楽しみですが、やっぱりこそこそ物陰から様子を見たりするのがすきです。あと「豊富なCQC」とあったけど、CQCは投げくらいしか使えないのでそんなに豊富でなくてもいいです(消極的)それとオープンワールドだと道に迷いそうなんですがw(方向音痴)物語も気になるけどゲーム自体もすごく面白そうで楽しみですね。

さてちょっとだけ物語に言及してみます。と、言ってもやはり小島監督のエディションなので、ものすごく気持ちを盛り上がらせつつ核心部分が見事に隠されていて、魅入ってしまうけど分からないという状態です。まあいつものことですが。今回はテーマが復讐、人種というこれまで以上にシリアスなテーマです。が、ちょっと別の点から考察してみたいと思います。キーワードは身体です。事故や病気で四肢を失った人が、ないはずの腕や脚の痛みなどを感じることを幻肢と言います。今回のトレイラーでもその痛みを訴えるセリフがあり、そこから発展して「喪われたものの存在感」を主張しています。これは実在しない架空の身体と言ってもいいかもしれません。四肢と同じように死者もまた身体そのものを失ったもの、と考えられます。そして今作では拷問のスペシャリストw リボルバー・オセロットが参戦しているせいかすごく拷問シーンが多いです。かつてないほど多いです。これは現実の身体を強く意識するものです。架空の身体は喪われたものを求めて与えられず、現実の身体は痛みの根源である身体そのものが失われることを望むのではないかと思います。相対するものと、交差する渇望。この永遠に補完しあうことのない互いへの怨嗟が、復讐を駆動させる機関になるのではないかと思います。