マン・オブ・スティール

あらすじ
滅亡が迫る惑星クリプトン。惑星では計画的な出産によって生前から生涯の役割が決められている。しかし科学者のジョー・エルとその妻は自然分娩による、選択の自由を持つ息子を生み出した。惑星の滅亡が迫ってもその運命を受け入れようとする議会は、滅亡に抗うゾッド将軍の反乱により乗っ取られる。このままでは新しい命もろとも惑星と命運を共にするしかない。しかしゾッド将軍の暴力的な方針には賛成できないジョー・エルは、まだ目も開かない息子を惑星住人すべての希望と共に、遠く生存に適した別の惑星へと送り出す。一方、かろうじて機能した議会に捕らえられたゾッド将軍は永く冷たい凍結の追放刑に処される。いつか目覚めた時には惑星とその住民は絶えているはずだった。ゾッド将軍はジョー・エルが送り出した唯一の生き残りである息子を追って、彼が送り出された星、地球を目指すのだった。



新生スーパーマンの物語です。アメコミには、アイアンマンにハルク、キャプテン・アメリカなどのマーヴェル系と、バットマン、スーパーマンなどのDCコミック系の2種類あります。まだ他にレーベルがあるのかもしれないけど。マーヴェル系はどちらかというとお祭り映画的なちょっと無茶な設定も「面白ければそれでいいじゃん!」と勢いでガンガン押し流してしまう感じですね。一方、去年3部作が完結したバットマンはリアル路線というか、バットマンというヒーローが必要な状況、設定を執拗に作り込み、ストイックというかちょっとへんた…いやフェティッシュな視線でヒーローを描いた映画でした。
で、このスーパーマンの立ち位置は、DCコミック系で「ダークナイト」(バットマンね)三部作の監督、クリストファー・ノーランがプロデュース、製作に名を連ねています。監督は「これがスパルタだー!」でむちゃくちゃ暴力的な映像をそれなりに映画に着地させたザック・スナイダー監督。300(スリー・ハンドレッド)ですね。この監督、画面に手を加えすぎてキラキラしてるのがあまり好きじゃなかったけど(ゲームみたいに何かしら細かい綿毛とか光が飛ぶw)、今作ではぐっと抑えたシックな光の使い方で、どっちかというとノーランぽい画面だなあと感じました。こういう方が好きだな。



バットマンもスーパーマンも、とても長く愛されてきたヒーローです。彼らが誕生した当時、そのスタイルは最高にクールだったはずです。かっこいいヒーローが敵を倒して人々を救う。その根底を変えずに、現代に焼き直すためのアイデアがよく考えられているんですよね。例えば「スーパーマン」という呼称を極力使わない。映画のタイトルも「マン・オブ・スティール」となっているくらいだし、劇中「スーパーマン」の台詞は最低限におさえられています。たぶん「スーパーマン」ってダイレクトすぎるから。当時はそれがクールでも今の時代に「スーパーマン」と名指されることはあまりかっこ良くないのでしょう。逆にマーヴェル系の「アイアンマン」はがっつり自分で「私がアイアンマンだ!」って名乗りますけどねw それと胸のSのマーク。「スーパーマンだからSかよwww」ってやっぱりちょっとダサいけど、「いやこれ実はSじゃないんですーたまたまSに見える異星のシンボルなんですー」という言い訳をきっちり用意してるんですよね。そしてさすがに回避できそうもない赤パンツを止める潔さ(でもさりげなくパンツ部分をマントで隠したりしてあまりそこに注意が行かないようになっててすごい)もあったして。そしてなによりスーツ越しにでも分かる筋肉の美しさ。厚い胸板に逞しい二の腕、がっしりした太ももの均整が素晴らしい。スーツを着こなすのではなく、筋肉を美しく魅せるためのラバーっぽい質感がすごくセクシーなんですよね。ラストで女性隊員がスーパーマンを見てにやにやしちゃうシーン、すごく分かる。そして長めの赤いマント。バットマンもそうだけど屈強な男がぶわっとマントを翻すところってすごく素敵。絶妙の長さだと思います。あとスーパーマンの両手を腰に当てたポーズを回想シーンの子供時代にさせる演出も、大人がやるとちょっと格好わるいけど子供なら微笑ましくていいよねという感じですごくひねってあるんですよね。こういう誕生当時のクールを現代のホットに生まれ変わらせる熱意がすごく良かったです。



物語について。バットマンが「俺はヒーロじゃない」と言っていたりアイアンマンが「私がヒーローだっ!」と主張したりしながらヒーローであり続けようと努力する、ヒーロー自身の在り方を問うものとは違うなと思いました。スーパーマンは能力的に既に完成されたヒーローとして存在しています。誰と戦ってもだいたい勝てる。ではスーパーマンは何と戦うのかというと、己の万能感に堕ちないように戦うんですよね。どんなに強い誰かとやっても勝てる喧嘩にのめり込むのではなく、それを自制すること。やられてもやり返さないと決めた男ですよ。彼が本気出したら倍返しじゃすまないからねw それは単に美徳という以外にも、彼が地球で普通の生活を営むために必要なことでもあるんですね。その姿勢を教え育てたのが、地球の父、ジョナサンでした。このジョナサン役のケビン・コスナーがね、もう最高にかっこいい父なんですよね。表情は淡々としているけど仕草や行動に信念が現れていて。嵐の中で息子を制するシーンなんかもう思い出しただけで感動してしまう。いやーほんといい人に拾われたよ。
それともう一人の父、ジョー・エル役のラッセル・クロウも良かったです。この映画、善き父に支えられてると思う。敵艦内でロイスという女性を救うため、道案内に現れては演劇っぽく腕を振り上げる仕草とか本当に似合う。こちらは産みの親ですが、選択の自由という大切なものを与えた、やはりヒーローには欠かせない人物なんですよね。
あらかじめ能力的に完成されているヒーロー、と言ってもやっぱり初めからうまくいくわけがないし、この映画の良いところはそういう「練習風景」もしっかりと見せてくれます。あの言葉にならない浮遊感、万能感はすごく楽しい。大地にぐっと拳をついて、一気に飛び上がる。音速を超えるときの衝撃波もかっこよかったです。
能力的に完成されていても、スーパーマンクラーク・ケントという一人の未熟な人間です。その能力をどう使うのか、彼は何を選択するのか。ヒーローという高みからではなく、個人というレベルから見たヒーローものとして新鮮な映画でした。