そして父になる

  • 心がその感情に焦点が合う瞬間がある

私は母親でもないし、まして父親がどのくらい大変なのかをよく知りません。周りの友だちは母親をやっていて大変そうだなとは思うけれど、子を持つ親がどういうものなのかを具体的には知りません。私はこの映画をほとんど感情移入することなく外部から観ました。子供を育てるのに血のつながりがないとだめなのか、それともそんなものはなくても子は育つのか。遺伝子よりも環境が影響するのか、結局は遺伝子に定められた通りになるのか。生物的な本能としての母性は存在するのか、それとも母性も父性も親となった人間が意識的に育てていくものなのか。良き親と、社会的に成功することは両立しないのか。明確な答えはありません。答えはどれも曖昧にYesであり、Noでもある。ただ外部から観ていて思うのは、人が親になるということは、その目線が一段上がるということなのだろうと思います。かつての両親と同じ目線に立つということ。その目線で世界を見る時、一番手前にあるものが子供です。一段上がりこれまでの目線のままではいられない状態で、その子供にどう焦点を合わせるのか。それがこの映画の主題だと思いました。この映画の子供たちは大人の世界の空気は察してはいても、その世界とは切り離された、その瞬間を生きることに精一杯の存在です。大人たちは子供のことを考えて、と言いながら結局は大人の事情に子供を巻き込まざるを得ません。そういう時の大人たちの目線は親の目線です。一番手前にはなにものにも代え難い子供が居る。なのにその姿がぼやけているように、その背景の事情に焦点が合ってしまう。そしてその事情というものに流されて行く。ではその焦点をどうやったら子供に合わせることができるのかというと、この映画では、一段下がるという回答を出したのではないかと思うんですね。一段下がり、かつて子供だった目線に立つこと。焦点を今目の前に居る子供の目の高さに合わせること。
作品中にカメラが登場しますが、このカメラの撮影者の視点と大人の目線が一致した時、親となるものが子供の目線で世界を見た時、その瞬間にようやく焦点が合ったのだと思います。



とても良い映画ですが、少しだけ気になったことを。
斎木夫婦の家庭は貧しくとも明るく兄弟が多く、父親は子供とよく遊んでくれる家庭です。一方、野々宮夫婦の家庭は一人っ子で教育に十分なお金をかけることができる一方、父親は忙しくてなかなか子供との時間を作れない、という家庭です。どちらが理想的かということではなく、どちらの家庭にしてもあまり子供を叱るシーンがないんですよね。この映画の状況的に「子供に優しくしたい」という心情が働くのは分かるけど、この年齢の子供ってもっと叱られてないのかな、と思いました。特に斎木の家庭はうちと似ていて父親はよく遊んでくれたけど同じだけ叱られた覚えがあるんですよね。それも大半は親の身勝手な理由で(笑)そういう親のままならないもどかしさ、というものはほとんど描かれていないのではないかなあ。見落としているだけかもしれませんが。


また、みどり(尾野真千子)とゆかり(真木よう子)の母親どうしの連帯も、私が聞き及んでいる限りにおいて少し理想的すぎる描写ではないかと思いました。ただお互いの子供のことを伝え合う河原でのシーンは、その二人にしか理解することのできない、母性を持つものだけの静かな会話が、なにか完璧で美しいもののように思えました。なんだろう、本来一人で抱えている自分の子供に対する母性を、外部と交換しあうことでその一部が透けて見えるような。母親ってすごく脆くて美しく、同時に強いものなんだなと思いましたね。