ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観


アマゾン川流域に暮らすブラジルの先住民族ピダハンが使用する言語について、著者が実際に彼らと暮らしながら調査した記録と彼らの文化について解説した読み物です。


まず最初にこれ、テレビのドキュメンタリーか何かで見ました。ピダハンの文法は再帰を持たない、つまり英語で言うところの関係代名詞(whoとかwhichで接続する、文の中の文ですね)がないらしい。ちょっとよく分からなかったけどつまり他の言語とコンセプトが違うものだということと、現存するどの言語とも類縁関係がない、というところが面白そうだなと思ったんですよね。



本書はピダハンの言葉を言語学者の立場から初学者にも分かり易いように丁寧に、詳しく説明しています。すごく分かりやすかった。この説明の中で驚いたのは、彼らの言語には数詞がない、ということ。いち、に、さん、がないってことです。数詞だけじゃなく、一般的な抽象概念がない、つまりは抽象概念を組み上げて意味を提示する、数学という言葉を持たないんですね。また色を一般化した言葉(赤とか黄色とか)にしないそうです。その代わりに具体的な血(赤)や熟していない(緑)と言った句を使います。まあ数学は私もあまり好きではないけど、日本語にしろ英語にしろ、言語は具体的なことだけを表すのではなく、色や数字と言った抽象概念のコード化というのは普通だと思っていました。プログラミング言語なんてコード化された抽象的なものしか扱わないしね。本書でも何度も言及されているように、ピダハンの人々は限定的な直接的な経験しか考えていないし、その経験上見たものしか信じない人たちです。(かといって抽象概念がまるでない、というわけでもないらしいですが)そういう彼らの文化には、キリスト教のような創世神話がありません。著者は研究者ですが、一方でキリスト教の伝導という使命も持っています。著者の仕事の一つは、彼らにキリスト教を布教させることなんですね。しかし彼らはキリスト教を受け入れませんでした。それは、イエスや神と言った説話上の人物を彼らが目撃することができない、すなわち彼らは見たこともない人物を信じることができないから。この強い文化的な制約が彼らの言語を形づくっているのだ、と本書では説明しています。



ここからは私が勝手に考えたことですが、信仰を持っていない立場からするとキリスト教、聖書はとても強いフィクションです。うーん、ストーリーと言った方がいいのかな。人がより善く生きるために集められた知識をストーリーという形で表現したものだと考えます。だって2000年以上に渡ってこんなにファンを獲得しているストーリー、そんなにないですよね。宗教というのは、人がどう生きるかというストーリーを提供することだと思います。そしてそういうストーリーは宗教だけじゃなくいろいろなところにあります。日本的な常識、倫理、そもそも日本の歴史はそんな一つのストーリーでもあります。そういうストーリーを提示される文化の元で生きる人々は、もちろん自分自身のストーリーを描いて生きています。満たされた子供時代、幸せな結婚、豊かな老後などなど。でもストーリーを提示する文化は必然的に敵を作り出します。あるストーリーに反する、もう一つのストーリーは敵ですよね。それにストーリーに参加できない人々を文化は容認しません。私たちが生物的な病気や怪我といった心配や不安以外に、憂鬱になったり嫌気がさしたりするのは、このいくつもあるストーリーの間にすりつぶされそうになるからなんじゃないかと思います。誰かの都合に振り回されたり、無意識に自分が善だと信じて敵を作っていたりして。一方でピダハンの人々にはそういうストーリーがないように思います。いや一つの大きなストーリーに全員が参加している、とも読めるけど、彼らはその日一日を暮らすことしか考えていません。ちょっと面白かったエピソードで、彼らは空腹なのにも関わらず、猟にも行かないで三日くらい唄い踊っていた、というものでこれには著者もかなり面食らったみたいです。私も、お腹空いているなら早く行けー!と思った(笑)彼らは食料を貯蓄するということをしないし、採ってきたものはすべて食べ切ってしまうそうです。明日に対する備えをしない、というのは愚かなような気がします。でも備えるということが不安を解消するかというとそうでもないんですよね。私もそれなりに貯蓄をしているんですが、若い頃にはこれだけあれば余裕だなと思っていた金額を遥かに超えた残高を見ても、余裕が持てるかというとそうでもなくて、逆に「まだ足りないんじゃないかな」と思うようになってしまいました。まったく備えをしないというのもどうかと思いますが、備えていると逆に不安になるなんて変ですよね。
備えるということはこの先のストーリーを予見しているということ。備えない彼らにはそんな「この先こうあればいい」というストーリーがありません。彼らは「今こうあればいい」のです。この視点にはかなり驚きました。すごく当たり前のことだけど私は今、目の前の現実をちゃんと見ているだろうか。未来のまだ起こっていないことばかりを考えず、過去のもう起こってしまったことばかりを考えず、今この瞬間のことを考えている時間ってどれくらいあるだろうか。そんな少ない時間に、私は自分のことから逃げ出して他の映画や小説やゲームといった自分とは直接関係のない他のストーリーに逃げ込んでばかりいるんじゃないか。ピダハンの人々と当時はキリスト教徒であった著者との差に、そういうことを考えさせられました。
でも今さら、その日暮らしができるほどタフでもないし、やっぱりなんだかんだ言ってストーリーが好きなんですよね。本書では、著者がアマゾン川流域で実際にそこで暮らしたサバイバルも併せて記述されていますが、その過酷さは想像している以上のものだったと思います。私には無理だわ、と読みながら何度思ったか。でもそんなサバイバルをしてでもそこで居を構えて彼らと一緒に暮らそうとした原動力は、宗教的な使命と科学的な意義というストーリーがあったからこそ、だと思うんですよね。ピダハンの人々には最後まで理解されなかった、明日に希望を見いだし過去を顧みて、より善く生きるということ。そういうストーリーに裏付けされたタフさも人間は持ち合わせることができるんだなあと思いました。