ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか

年に一冊くらいはノンフィクションを読もうと思っていて、今年選んだのがこれでした。というかこの前やっていたカドカワKindleセールで安かったから買ったんですけどね。


本書はNHKスペシャル「ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか」の複数のディレクターにより記述された、同番組の取材ドキュメンタリーです。
現代人の心の起源を探るため、世界中様々な科学分野の研究者を訪ねて、おおまかに4つの段階に区切って紹介しています。4つに分けられているのはたぶん番組上の制約で、科学的なものではなさそうですが。

チンパンジーというもう一つのあり得たヒト

まずは類人猿とホモ・サピエンスの違いから始まります。チンパンジーとヒトって遺伝子レベルでは1%くらいしか違わないんだそうですね。遺伝子的に1%がどれくらいの値なのかはちょっと分からないけど、外見なんかから察するともっと違っていそうに思えますけどね。
ここで面白いのはチンパンジーの意識の在り方です。これは後の章にも登場するんですが、チンパンジーは基本的に助け合わないということ。モノをシェアしないんですね。そしてこれがチンパンジーとヒトとを根源的に分つ違いのようです。モノを分け合うということは、将来的にそれが恩返しとして戻ってくることを期待した行動です。そんな先の展望を持つのはヒトだけで、チンパンジーは将来的な利益を想定せずにその場その瞬間をとにかく生き延びることを優先します。
それは彼らがヒトよりも身体的に優れているからできる戦略だと思うんですよね。本書でもところどころSF映画が引き合いに出されていますが、映画「猿の惑星」(近年公開した方)を観ていると、もう人間なんて全然敵わないなあと思っちゃいますもんね。
ヒトは基本的に弱い。だから協力し合わなければ生き残れなかった。それが今日の社会関係やネットワークにつながっていくんですね。やっぱりヒトって誰かがいないと生きられない生き物なんだな、ということが科学的に説明されていて面白かったです。もっと個々が強かったらチンパンジーのようになっていたんでしょうね。

モノと共に生きる

協力したり拒絶したり、他人との関係を紡ぐために必要とされたモノと、ヒトとの関係を深く追求した興味深い章でした。飛び道具という人類が文化的に飛躍するために必要だった、モノ。まるで映画「2001年宇宙の旅」のあの有名なプロローグ、猿が放り投げた骨のこん棒が宇宙船になるシーンを彷彿とさせます。まあモノリスなんてありませんけどね。あなたと私は仲間だという証としてのモノがやがて、掟を破ったものに対する罰として使われ仲間意識を強制する力となっていく。ここの章ではあくまでヒトとヒトを集団にまとめるための媒介としてのモノが紹介されています。モノは言語が定かではない時代に、共通して認識される確かなものでした。でもそういうモノを、ヒトは愛したんじゃないかな、と思うんですよね。交換される貝や黒曜石に丹念に施された装飾。それは他と区別をつけるために必要だったのだろうけど、たぶんそういうの好きだったんだと思います。モノへの愛着がきっとこの頃にはもう芽生えていたんじゃないかな。

上位意識との戦い

モノを通して築き上げた家族社会は少人数でかつ平等でした。ダンバー数という人間が仲間だと認識できる人数の上限があってそれが150人程度だと言うんですよね。SNSでもアクティブに交流するメンバーの数の上限がそのくらいだといいます。でも今、この社会は150人では成り立ちません。ヒトはその家族社会を超えてもっと大きな社会を築きました。似たような習慣や価値観を持つ人たちが集まり生まれたのが宗教でした。ダンバー数を超えてヒトはどんどん集まってきます。つながることが生存戦略のヒトは個々のアイデアを持ち寄って「集団的頭脳」を開花させていきます。そしてそこに民意や社会的意思といったものができ上がります。これが人々をまとめるためだけに機能してたらこんなに平和なことは無いんですが、集団が集団である以上境界というものが存在するんですね。そしてその境界の外に居る存在を、集団的意思はなぜか許可しません。そうやって今も続く宗教戦争が起こっているようです。
ずっと不思議だったのが個々は優しいのに、国家や組織を背負った瞬間に暴力も辞さない残酷さをどうして人間は持てるのかなということでした。まるで集団になると別の生き物になってしまうように。集団的意思に操られているみたいに。人間の敵は人間ではないのでしょう。上位意識によって駆り立てられる敵意は個々の人間では止めようがありません。そういうメタ的なものとヒトはずいぶん長い間戦って来たんだなと思いましたね。

集団から個へ

巨大化して行くヒトの社会を受け入れる器。それが都市です。大きな都市にはよりいっそうヒトが集まり、協力して生活します。この頃になるとヒトが生きるために必要なモノは大幅に増えていきます。もう社会的な絆を結ぶためのアクセサリーだけでは生活は不便過ぎなんですね。より美味しい食べ物、より快適な衣類、より頑丈な住まい。それだけではなく、モノを持つということが新しい欲望を加速させることになります。本書でははっきりと言及されていないけど、ヒトはやっぱりモノといろいろな関係を結びながら進化して来たのではないかと思うんですよね。
巨大な社会の中でヒトはその文化を維持するために必要な仕事を分業化します。もうここまで来ると現代社会と変わりません。分業化した仕事をする代わりに賃金を得て、そしてヒトはたぶん初めて集団ではなく個人になることができました。個人というのはわりと最近の概念なんですね。その個を解放したのが経済という価値観です。お金があるかないかは、人間の能力や生まれに関係がない。一方で経済的な欲望には歯止めが利きません。
人間は目に見えない「経済」というものと共生していかなければならないんですね。



人間はなぜ争うのか、金銭の欲望はなぜ止められないのか。
こうやって人間の心の成り立ちを俯瞰してみると、人間の心はその環境に適応させてきた産物なんだということがよく分かります。そして今、人間は自分自身で作り上げたり壊したりした環境の延長線上に居ます。心を生み出す要素が自分自身にもあって、それをどうにかするのはとても難しいことなんですよね。でもここまで変化に適応して来た心の柔軟さにもまた驚きます。人間はこの先まだまだ柔らかく適応できるんじゃないか。なんだかそんな気がしました。