イミテーション・ゲーム


あらすじ
コンピュータの基礎原理を築いたアラン・チューリングの史実を元にした物語。第二次世界大戦時のドイツの暗号機「エニグマ」の暗号を破るため数学者である彼は軍に招集される。


早速観てきました。とても面白い映画でした。今その面白さを思い返すと二つの側面があるんですよね。ちょっとその二つを掘り下げてみたいと思います。

アルゴリズムが生まれるとき

劇中でも触れられていましたが、暗号を解くためには天文学的な数の組み合わせを試さなければなりません。膨大な計算量(オーダー)が必要なんですね。それを人の手でやっていてはまったく間に合わない。でも絶対に解けないわけではなくて、計算量的に困難であるために安全であるというだけの話です。要するにその計算にかかる膨大な時間を圧縮すればいい。計算という巨大な牙城のどこかにある脆弱性を突けばいい。チューリング・マシンの核である時間と空間。その無駄な部分が徐々に削ぎ落とされて、即時に計算可能な「かたち」へと研ぎすまされていく。まるで丸太から彫刻を彫り出すようにね。そのかたちを私はよく知っているんです。ああ、これって「アルゴリズム」のことだって。その過程がドラマと相まってとても魅力的に描かれていました。いやーほんとね、チューリングだけでなくチームのアイデアがどんどんオーダーを下げていく様は観ていて感動しました。こういうのなかなか映像として表現しにくいけど、すごく良かったですね。
計算は目には見えない。でもその目に見えないものが正しい手順を踏むと現れるもの。膨大で複雑な計算を経て得られた答えはとてもそっけなくありふれた文字列なんだけど、それこそがその計算の証明なんですよね。そのシンプルだけど確固とした証明がとても美しかったですね。

一方で、チューリング自身は説明をすることがとても下手です。彼は機械のように思考できても、それを人間の言葉にすることができない。論文なんかは書くんだろうけど、声に出すことが難しいんですね。彼は計算機のように過程を証明することができない。そしてそれがチューリングにあらぬ嫌疑をかけられてしまう原因にもなります。
ここで思い出したのは、去年の遠隔操作事件です。事件は容疑者の自白で落着しましたが、捜査の過程で問題になったのは、当時の容疑者のプログラミング・スキルでした。一緒に仕事をしていた人たちは、彼にそのようなハッキングができる程のスキルは無かったと証言していたりと、捜査はかなり難しかったようです。この時、どこかのフォーラムで見かけたのが「どうやって自分のスキルを証明するか」ということでした。できないことをできるように見せかけるのは難しいけど、できることをできないように見せかけるのは簡単ですよね。「私にはこれこれができます」と言ってそれを真に証明することは実はとても難しいし、スキルが高ければ高いほどどうにでも誤摩化せてしまう。そんな疑いをかけられたら、いくら言葉にしても無理なような気がします。
ここがとても面白いところで計算の証明はその計算がいくら複雑でも結果はとてもシンプルなのに、人間の思考の証明はなぜか複雑で難しい。
チューリング・テストは本来機械の知性を検査するためのものですが、劇中ではチューリング自身の身の潔白が困難であるものとして描かれていたのがとても印象的でした。

知性の宿る場所

こういうとちょっと語弊があるかもしれないけど、数学的なセンスは持っている人と持っていない人がかなりはっきりしていると思うんですよね。ちなみに私は持っていません(笑)先天的か後天的かは分かりませんが、それは人間の脳にしか存在しない、美しいなにか。それが輝くとき人は数字あるいは文字列でもってその存在を証明する。その希有な宝石のような知性が、街角や避難した防空壕、どこかのカフェでひっそりと輝いている。そういう風景がさりげなく挿入されているのが印象的でした。チューリングは男性ですが、その知性は男性だけのものではない。知性は性別や人種を超えたところにある。知性は人間の身体的な性質とは別のところにある、という希望。そして人間はその身体からはどうにも離れられないという絶望。その両端がきちんと描かれているところがとても良かったです。数理的な世界では自由にその才能を羽ばたかせるチューリングは、政治の世界では国家機密と自身の秘密を抱えて逃げる場所もない。それがとても切なかったですね。そしてそれを演じたベネディクト・カンバーバッチが素晴らしかった。天才の輝きと闇を見事に表現していたと思います。