現実と照合することで完成するSF - 「クローム襲撃」


例えば「記憶屋ジョニイ」。これを読んだのは、まだコンピュータの外部記憶装置がフロッピーディスクと呼ばれていた頃。よくよくは保存できる容量も増大していくだろうし、そうしたら人間の脳を間借りした持ち運び可能なデバイスのお話があってもおかしくないよね。と、おぼろげながら思ったものでした。そしてわりと最近、なにかの天啓のように言葉が浮かんで来たのです(笑)ああ、あれって人間USBなんだなって。「記憶屋ジョニイ」は、自分の脳の一部を初期化(フォーマット)してアンダーグランド・ビジネスの情報を詰め込んで安全に運ぶ、そんな運び屋の物語。人間の脳を記憶装置に転換するアイデアは当時としては秀逸ですが、今となってはさほど驚くようなものではありません。物語もおおよそ想像がつくように、自分の記憶を取り戻そうとする物語です。いま読むとちょっと可愛いな。
これをすごくSFだなと感じるのは、むしろこの物語をたった一言の「人間USB」で説明できてしまう現実の方なんですよね。ギブスンの小説はそれ自体でも当然面白いです。まあちょっと好みは分かれると思うし、もうガジェットなんかはレトロな部類に入ってしまうと思うけど。でも読んだ後に、いつも見ている現実の風景が違って見えること。まるで「ガーンズバック連続体」のレトロフューチャーを幻視してしまうように。


伊藤計劃さんのレビューのなかにこのような言葉があります。

SOWなどこれっぽちも無いにも拘らず、徹底して「いま、ここ」でありつつ、現在のテクノロジーを超えた何かが出てくるわけでもないにも拘らず。それでもなおSFであるのは、それはすなわちギブスンの文体こそがSFであったから、ギブスンの眼を通せば何もかもが未来になってしまうから、なのかも知れない。
伊藤計劃記録 - SFの或るひとつの在り方」より


SOWというのは、Sense of Wonder、「すごいなあ!」と感じること。確かにギブスンの作品には、ごく普通にSFに求められているような新規性や詳細な理論を基にした設定というのはありません。読んでてもあまりびっくりしないのね。あれ?と思っている間に物語が終わっているんです。でもその眼を通して見た現実がとても面白い。未だに人間の視覚がネットに接続される気配はないけど、「ネット」という言葉でイメージする大部分はここに繋がっていると思うんですよね。それが「電脳空間(サイバースペース)」という言葉で表現されたときの、「おお!」って感じ。解りますかねえ。確かに文体やレトリカルな造語は文芸の領域で、厳密にはSFとは呼ばないのかもしれない。でもSFの古典「1984年」で示されているように、言葉は認識の表現形なんですよ。その認識が変わること。その時こそSOWを感じる瞬間です。ギブスンの作品は現実と照合することで初めて完成する、そんな作品なんでしょうね。


というわけで来月「クローム襲撃」復刻するみたいです。
ちらりと読み返してみたら、けっこうロマンチックなお話が多いのね。ようやくそういうところが読めるようになってきた…のかな。「SFは難しい」というハードルの上にさらに「どこ」とも言いにくい面白さを持つギブスンの作品。伊藤計劃さんも述べているように、コンピュータ・ガジェットをちりばめたSF的な詩のようなもの、と言った方が分かり易いのかも。
それでも、ちょっと変わったSFが読んでみたいなあと思ったら。おすすめです。というかまたちゃんと読み直したくなってきた(笑)


伊藤計劃記録

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