アメリカン・スナイパー


観たのがずいぶん前になってしまって今さら書くこともないかなーと思ったんですが、最近オンデマンドサービスのHuluに登録しましてね。それでこの映画を観てたらちょっと「ハート・ロッカー」を思い出して、見直してみたんですよね。
戦争という非現実、ヒトが社会的な人であるために必要な、心に築いている繊細なものが圧倒的な暴力で破壊されるそのストレス。常に誰かに狙われている、敵意に24時間備え続ける緊張感。そんなものに晒され続けて狂わずにいられる方がどうかしている。
ハート・ロッカー」は異文化とのディスコミュニケーションをストレスの一つとして描いていましたが、一方で「アメリカン・スナイパー」は敵であるはずの者にも主人公と同じドラマを背負わせています。お互いの思考は鏡を映したように一致し、ある意味コミュニケーションが成立しているんですね。では「アメリカン・スナイパー」の戦場はなんだったのか。それは死というものが生と同じように遍在している、その荒涼とした風景だったと思うんですよ。映画の中で、戦争状態以上に過酷な砂嵐に見舞われ、その中を逃げ延びるシーンがあるのですがあれは、こういう書き方をしてしまうととても陳腐だけど、死の象徴そのものだった。死神の衣に包み込まれるように巻き上がる砂で薄暗くなっていく景色の中で、主人公は必死に逃げ惑います。その手に掴まれないように。さらに素晴らしいのはその次のカットで「日常」が描かれている、その非日常感。猛烈な砂嵐の描写を尺を使って丹念に描いていて、ばさっと切り替えるその男前な(笑)カット割りはとても印象的でしたね。
また、携帯電話でいつでも母国の妻と会話できる、その地続きの感覚も素晴らしい描写でした。あまりエキサイティングに面白い!という映画ではないけど(盛り上げるような音楽もほとんどないし)、「戦争という現象」を巧みに映像化した作品でした。


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お、けっこう書けたぞ。まあ今日はこの辺で。ここ最近は神林長平さんの著作にはまってて、昨日も「ぼくらは都市を愛していた」を再読してました。そうそう今年は再読をしようかなと思ってて、ずいぶん前に読んだ時には理解できなかったハードSFとかもう一度読み直そうと思ってます。理解できるかは…さておき(笑)