白熱光

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あらすじ

DNA由来の生物だけでなく高度に進化した機械知性も混在する遠い未来、肉体的な制約を捨てた人々は長い年月を生き、多くの科学的問題を解決してきた。しかしそんな未来において「新たな発見」など望めず、そんな世界に漠然と不満を抱えていた。そんな世界で生きるDNA由来の人格ラケシュは、隅々まで知り尽くされてもなお一つだけ特異点のように残る「孤高世界」を通り抜けてやってきたというラールという人物に会い、「孤高世界」で発見された未知のDNA世界について知る。彼女との約束と、漫然とした長い時間に見切りをつけてラケシュは沈黙を守り続ける「孤高世界」へと向かう。


難しい。よく分からない。なんのことかさっぱり。
この作品の作者、グレッグ・イーガンの作品を読むとだいたいこんな感じです。そして今回もブレずにこのとおりでした。…いやー冒頭を読んだ時は「お、今回はけっこう分かりやすそう!」と思ったんですよね。宇宙探検ものっぽい感じかなーと。まあ実際読んでみて、あらすじで少し書いたラケシュからの視点の奇数章はなんとなく大丈夫でした。まあちょっとスケール感つかめてないけど、望遠鏡やら解析機やらは想像の範囲内だし。問題は偶数章です。この作品は奇数章と偶数章で2つのストーリーが交互に語られるという構成で、偶数章では非常にローカルな視点でどこの世界とも説明のつかない、そんな世界で生きる人物の視点で描かれています。人物、と書きましたが実際はちょっと違いますけど、小説で読む限りは人間の知性と捉えて問題ないと思います。


この偶数章でやっていることは、自分たちの天体(人類で言えば地球)が真っ二つに割れてしまう、そういう危機を予測しその危機をいかに回避するか、に費やされています。…いるはず。…と思う。…自信ない。まあこう考えてみましょう。数年後、地球に隕石が衝突するとします。まあ石油採掘のプロにお任せすれば一挙に解決しそうですが(笑)、これはそういうエンタメではありません。衝突までの軌道をまず計算しなくてはなりません。そういうことはNASAがきちんとやってくれているはずですが、もしそういう機関がなかったら。大きな望遠鏡もなく、地上から星の動きを見て観察するくらいしかできないとしたら。そして人類の誰一人、天文物理どころか、基礎的な数学すらできないとしたら。偶数章はその基礎中の基礎から、徐々に立ち上がって行く幾何学、物理学の大聖堂の物語でもあります。その優雅さ、巨大さ。詳細は分からなくとも、そこにたどり着くまでにどれほどの研鑽があったか、そして未だ完成しない部分がどれほどあるか。そういう目には見えない抽象概念を、精巧なミニチュアを組み上げてみせるように描いていると思うんですよね。


奇数章の世界「融合世界」では、偶数章の世界「孤高世界」でやっている計算や問題は既に解決済みです。じゃあ、さっさと「孤高世界」に教えてあげればいいじゃない、と思うのですがそこにちょっとこだわるのがイーガン作品の特徴です。この作品でもそうですが「異文化に不用意に接触してなんらかの影響を与える」ということに、とてもセンシティブです。宇宙人がUFOで地球人をさらって洗脳、とかまずないです(笑)それがどんなに未熟であろうと自分たちで創成した知性であろうと、知性生物であると認めた以上それらの意思を尊重する、というのが基本姿勢なんですよね。イーガン作品にはこういう少し昔のSFを彷彿とさせるような、啓蒙の一面があると思います。なのでコミュニケーションは取るけど余計な干渉はしません。


では、なぜこの二つの世界の物語を並べて語る必要があるのか。「融合世界」は「孤高世界」の幼年期の終わりをただじっと見ているだけなのか。ここで「融合世界」の人、ラケシュの視点に戻りましょう。ラケシュたちには、もう知り得ることはなにもありません。唯一の謎は「孤高世界」の沈黙だけですが、それも「返事がない。しかばねのようだ」的な無反応に誰も興味を示していないようです。その「孤高世界」では、他の世界ではとっくに知り得ていることに血道を上げつつも、その過程に誰もが夢中になっていきます。きっと、羨ましいって感じたと思うんですよ。もう遊び尽くしてしまったゲームを、記憶を消してもう一度まっさらな状態でやってみたい。時々そう思ったりするのに似ているのかもしれません。


ネタバレ






というほどでもないと思ったけど一応。
「孤高世界」の沈黙の理由は、このラケシュがたどりついた結論に集約されてると思います。

ぼくが思うに、彼らはたくさんのことをなし遂げ、たくさんのことを学び、たくさんのものを見たけれど、いま、世界がもはやあたえてくれなくなったものを必要とすることなしに、生きる方法を見つけざるをえなくなっているんだ
グレッグ・イーガン 「白熱光」より)

だから彼らは半ば眠ったように沈黙しつつ時間の大半をやり過ごし、世界が新しい何かをあたえてくれるまで目覚めない。偶数章のロイやザックがそうであったように。
そうすると、この二つの世界は一方が先んじていて、一方が後れている、というのではなく、単に生存戦略の違いなんでしょう。二つの物語が交互に描かれているのは、このためなのだと思いますね。
それにしても、意識の焦点に飛び込むような危機や現実が迫ってくるまでぼんやりとうたた寝をしているように生きているなんて、そのSF、どっかで読んだような気がする(笑)