沈黙 サイレンス


観てきました。
江戸時代、幕府によって禁止されていたキリスト教を信仰していたキリシタンとイエスズ会の若き司教の、信仰をめぐる苦闘の物語。

キリスト教の話ではありますが、思ったほど説法(という言葉はどうなんだ)じみた話ではありませんでした。それは一口にキリスト教と言っても、個々の信仰の度合いも違うし、異国の地で異国の言葉で広まったことで、教義の認識に誤差が生じていたり、とこの映画に登場する人々は同じ一つの神を信じていながら、とても多様な信仰のかたちを持っているように思いました。失踪した恩師を探しに日本へと渡った二人の若き司教、ロドリゴアンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)ですらその信仰にはどこか個性を感じます。そして日本で広まった信仰は本場のものとは若干かけ離れて、自然信仰などの独自の思想が混ざり合って司教たちを困惑させます。
なにより主要人物の一人であるキチジローは、何度も司教たちを裏切っては懺悔を繰り返すなど信仰そのものがとても脆く弱い。
キチジローは常に信仰そのものが危機的な状態で、これは棄教を迫られるロドリゴの先行したイメージとして常にロドリゴの後ろについて回ります。さらに映画の中でも分りやすい表現があったのですが、キチジローはキリストを裏切ったユダの比喩でもあると思うんですよね。
この信仰の危機というのがこの映画の一つのテーマでもあります。キリスト教では裏切り者のユダは救われない。信じる者しか救われないなら、信じたいけど心の弱さから信仰を捨ててしまう人間は、どこに救いを求めたら良いのかということ。ロドリゴは呆れながらもキチジローの告解(懺悔)を聞き入れますが、そこには神職者として、というよりも自分自身にも同じ信仰の危機を感じたための同情や共感があったように思いました。ロドリゴは棄教せずに殉死したモキチ(塚本晋也)やガルペのようには生きられない。彼は恩師のフェレイラ(リーアム・ニーソン)やキチジローと同じように、己の弱さと信仰への切望の間で苦しみながら生きるしかない。そんな彼らはもう、キリスト教の教義では救えない。主は沈黙し、誰も許しの言葉はかけてはくれないのです。


もう一つは信仰を広めるということの暴力について。日本は世界的に見ても宗教には大らかな(無関心とも言うけど)文化を持っていますが、それも脅威に感じなければ、というだけのこと。江戸時代に突然やってきた異邦人の、聞いたこともない「主」というものを信じろと突きつけられた時に脅威を感じる、ということはすごく理解できるんですよね。まあ拷問までしなくていいと思うんだけど。理解のないまま未開の国を啓蒙しようとする行為というのは、ただの文化的、思想的な蹂躙でしかありません。映画を観る限り、日本はそれなりに相手国を理解しようとしていたと思うんですよね。言語を習得し、その教義の本質を見抜こうと理解をしようとしていた。そこに好意的なものはなくても。そして一度懐に入れた司教たちを、無残に殺しはせずに飼いならし文化的な生活を送らせていた。でも、日本のやりかたが最適だったかというとそうでもなくて、それはただの方法の違いなのかもしれません。性急に文化を改変するという要求だけを押し付けるのではなく、長く飼い殺しのようなかたちで文化を浸透させていくというのは、かける時間の長さが違うだけで相手の文化的基盤を破壊する暴力に他なりません。


キリシタンたちは短い時間でキリスト教の教義を受け入れた。ロドリゴは長い間、「日本人」として暮らしながらも棄教してからは一切の信仰的な行動がなかったとしても、最後まで沈黙の中で信仰を守り続けた。同じ人間なのに短く強い信仰を持つ者と、長く弱いながらも信仰を持ち続ける者とが居る、というのがとても興味深い映画でした。